10年に一度のホーランエンヤが今の日本に問いかけること【後編】

10年に一度、松江で開催されるド派手な船神事「ホーランエンヤ」

その謎に満ちた実像をこのサイトなりに解き明かしていこうと思う。

【前編はコチラ】


ホーランエンヤのルーツを探る

 CINII(論文検索システム)で検索してもこのお祭りのルーツを調べた論文は出てこず、各地の櫂伝馬行事やホーランエンヤ、それに似た名称のお祭りを調べてもそれぞれの伝承しか出てこないので、ここではあくまで収集できる範囲の資料で勝手に考察してみる。

 まず、分かっている範囲で全国に散らばるホーランエンヤ・櫂伝馬踊り関連の行事について以下の表に祭りの開始時期と内容についてまとめてみた。

 以上のことから分かるのが、

1.江戸時代起源のものが多い

2.櫂伝馬船とは元々水軍の早船のことである

3.特に瀬戸内は戦国時代の村上水軍をルーツとする櫂伝馬船が多くみられる

4.ホーランエンヤやそれに類する祭りには必ずしも櫂伝馬船が登場するわけではない


ということである。

 それらのことから、恐らく水軍の櫂伝馬船を使った「競漕」の儀式が元々瀬戸内海にあり、それが今日伝わるの各地の祭りの原型なのではないかと推察できる。

 そこから次第に祭りの祭礼として「踊り」が付け加えられていき、流行のような形で「櫂伝馬踊り」が全国に伝播。「ホーラ!」「エイや!」といった掛け声も広まっていき、それぞれの地域のお祭りと融合

 松江では元々あったご神体を船で運ぶ行事に「櫂伝馬踊り」が加わったのが現在のホーランエンヤであり、船の安全祈願に「櫂伝馬踊り」が加わったものが延岡市の櫂伝馬踊りや島根県江津市のホーランエー、豊後高田市のホーランエンヤとなったのだと考えられる。


 以上の経緯から、「櫂伝馬踊り」を伝えられた地では、本来の「水軍の櫂伝馬の上での踊り」という定義が伝わっていないという事態が発生している。

 豊後高田市では「ホーランエンヤ」という言葉が「宝来栄弥」という文字が当てられることでピックアップされ、船も「宝来船」として発展した。

 松江市のホーランエンヤでは櫂伝馬船という呼称こそあるものの、水軍的要素は無くなりあくまで櫂伝馬踊りを行う漁船を櫂伝馬船と呼んでいる。他地区との言葉の意味に違いが生じていることは留意点だろう。

 wikipediaの櫂伝馬船の項目には松江ホーランエンヤにおける櫂伝馬船の説明しかなく、これは本来の意味ではなく派生的な意味の内容に偏っていることとなる。


 一方で美保関の「ホーランエッチャ」は名称は類似し、競漕もあるが、船が元々単材刳舟(丸木舟)であったことや、踊りも他地域と全く異なり青石畳の上で行うこと、そして祭り自体も国譲りの神話をモチーフとしていることから全くの別物である可能性もある。

 

 以上はあくまで、調べられる範囲で得た情報から管理人オカダヒデアキが推察したものだ。より詳しく調べるためには各地域の伝聞や記録の確認が必要となってくる。また、他の地域にも類似する祭りがあるはずである。

 もし紹介した以外に似たようなお祭りがあるのを知っている方は和はなびのお問合せ先(waha_navi@yahoo.co.jp)までご連絡いただければ幸いだ。

 機会があれば櫂伝馬祭りの文化についてはまたしっかりと調べたい。この記事を読んだ方でも興味を持った方はぜひ調べてみて欲しい。


粋な江戸の文化

 さて、いろいろと調べてきたホーランエンヤであるが、やはり松江のホーランエンヤはその中でも特異な存在である。とにかく派手で、踊りのオリジナリティが高い。

 恐らくそれには二つ理由があると思う。

 一つは競漕の要素が松江のホーランエンヤには無かったこと。スピードを出す必要がないので、縁起物として装飾をいくらでもできたのだ。

 もう一つは祭りの場が汽水域の川であること。他地域が海や川など、波や流れがあるところで開催されているなか、松江の大橋川は宍道湖と中海という二つの汽水湖を結ぶ水路のため流れも波もほとんどなく、小舟であっても船上である程度ダイナミックに踊ることができたのだと考えられる。


 松江のホーランエンヤにおいて、櫂伝馬踊りを行うのは、船首部分にいる「剣櫂(けんがい)」と後方の女形である「采振り」だ。これらは櫂伝馬踊り自体が外から入ってきた文化である松江においては、地元の故事や昔話をモチーフにしているわけではない。基本的に衣装は歌舞伎の影響を受けていると言われている。化粧は隈取、多くの剣櫂が頭に百日鬘をかぶり、見た目は完全に歌舞伎役者である。

 一方で腰には横綱の綱に似たものをつけ、化粧まわしに似せた前掛けをかけているなど、相撲の影響も明らかに見つことができる。

 さらに、馬潟地区の剣櫂には桃太郎をモチーフにしているものもある。桃太郎はルーツは同じ中国地方でも吉備国(岡山県)に伝わる昔話だ。


 つまり、神輿船だけの行事が地元の人々の手によって、

本来の神輿船の神事 × 櫂伝馬踊り × 庶民文化(歌舞伎+相撲+桃太郎など)
=松江のホーランエンヤ

という形で発展していったのが現在の松江のホーランエンヤなのだ。それが現在の祭りの賑わいにつながっている

 神輿船だけ祭りであれば、もしかすると現在のように中国地方全域で生中継されたり、全国に知られるような祭りになっていなかった可能性もあるだろう。


ホーランエンヤの保存

 さて、賑わいを見せ、発展を続けてきたホーランエンヤであるが、その祭りを主に支えているのは前編でも書いた通り五大地と呼ばれる大橋川中海河口付近の5つの地区の住民である。

 言うまでもなくこの地区の人々は普段は別の仕事をしている一般人であり、普段の生活と並行して衣装や船の準備をし、踊りの稽古を重ねて祭りを存続している。

 そして人口減少の時代、五大地もそのあおりを受け、ホーランエンヤの担い手不足が課題となりつつある。


 特に最も存続が危ぶまれているのが二番船、矢田地区だ。山陰中央日報によると10年前35世帯だった集落は28世帯となり、38人のメンバーのうち25人が地区外からの応援となっている。

 また、衣装の手入れや鬘の装着、化粧なども伝承できる人が減っており、矢田地区、大海崎地区では京都太秦のプロに一部の作業を依頼している。

 伝統文化の継承と地方創生、地域活性化は切っては切れない関係にあり、まさに待ったなしの状態なのだ。


10年に一度のホーランエンヤが今の日本に問いかけてくること

 今回、松江のホーランエンヤを調べていくなかで、櫂伝馬のルーツを共有する祭りが西日本各地に存在することが分かった。これらのお祭りは現在では地域レベルで行われているがきっと観光資源としての可能性を秘めており、地域外の人から見ても見ごたえ十分のものもあるだろう。

 しかし、祭りに限らず日本の文化は、生活の変化と人口減少の中で人知れず少しずつ消滅していく。


 松江市のホーランエンヤは日本政策投資銀行の試算によれば経済効果が38億円であるという。なお、この数字は来場者数が前回の36万5千人を想定していたが、今年は実際には38万5千人だったことから、より大きな経済効果を生んだことが想像できる。

 そして、実際に観客に紛れて思ったことは、観客のほとんどが日本人であり、まだまだインバウンドを呼び込むことで経済効果を大きくする可能性はあると思う。そもそも山陰は外国人観光客を呼び込めていない


 櫂伝馬の他のお祭りも同様だ。松江までではないにしても、その地域を発展させる潜在的な力があると思う。そのためには、祭りを盛り上げようとする意志が必要である。


 櫂伝馬は、身近にある様々な粋な文化を取り込み、発展していったものだ。あるところで形が完成したとしても、変化を否定して祭りが成立したわけではない

 前編で紹介した通り、元証券マンで現小西美術工藝社会長・社長のデービットアトキンソン氏も「文化財を保全・手入れすることで日本の経済にも有益である」と語っている。


 伝統文化や祭りを消えゆくものとして情緒的にとらえるのではなく、それこそ「宝来栄弥」の掛け声とともに、私たちの暮らしを豊かにするものとして、まっすぐに見つめなおすべき時代に来ているのではないだろうか。