10年に一度のホーランエンヤが今の日本に問いかけること【前編】

よそ者の視点

 いきなりだが、このサイトをご覧の皆さんはデービットアトキンソンさんという日本在住のイギリス人をご存じだろうか。

 彼はバブル崩壊前の日本にアナリストとして来日し、引退後は趣味の茶道を嗜む生活を送っていたが、知人からの紹介で文化財の補修を行う小西美術工藝社の会長・社長に収入すると経営を立て直し、今では経済界でも文化界でも知られる人物である。

 そんな彼は自著を通して日本社会に「生産性立国」「観光立国」をやや辛口気味に提唱しているが、その「文化財を保全・手入れすることで日本の経済にも有益である」との主張は、なんとなく「いいこと」「大事なこと」というイメージがあったものの時代の流れの中に消えつつあった日本の伝統文化や日本の自然を守るうえでは経済界と衝突しない、共存できるという論拠を提示してくださっているという点で、本サイト管理人のような人間にとっては非常に心強い言葉だと感じている。

 このように、外国からやってきて「よそ者」として日本の文化の価値を見出してくださる方というは歴史的にも何人かいるが、特に有名なのか小泉八雲だろう。

 彼は元々パトリック・ラフカディオ・ハーンという名のギリシャ人であり、教師として赴任した松江を中心とした島根半島で出会ったこと、ものを「神々の国の首都」をはじめとする書籍に記録していった。松江には天守の残る松江城の北に彼の住居も残り、観光スポットとして人気を集めている。

 その松江で今年、10年に1度のお祭りが開催された。

 その名は「ホーランエンヤ」

 日本三大船神事にも数えられるという、船の上で主に行われるお祭りである。


ホーランエンヤとの出会い

 管理人のオカダヒデアキはホーランエンヤについて、数年前に出雲・松江を一人旅したときから気になっており、次に開催されるときは是が非でも見に行こうと心に決めていた。

 オカダは基本的に祭りが好きだが、この祭りをたまたま知ったときの衝撃は今でも忘れられない。

 衝撃を受けた要素を2つ挙げるなら、一つはその非日常感、もう一つはその勇壮さである。

 上は10年前のホーランエンヤの様子だ。

 船の先頭に剣のようなものを持った白塗りの男が踊り(剣櫂)、後方では女ものの着物を着た人物が舞う(采振り)。船には大勢の男が漕ぎ手として乗船し、声を合わせて「ホーランエンヤ」という言葉を音頭に合わせて合唱する。

 昔の日本はハレとケという概念があったなんて言うけれど、これこそまさに「ハレ」だと言わんばかりの不思議な船団。しかも行われるのは10年に一度だけという希少感がその非日常性をさらに掻き立てている。

 そして、この祭りは松江近郊の5地区に住む一般の人々によって伝承されているというのがさらに興味深い。

 ホーランエンヤ還御祭が開催される5月中旬。松江行きのチケットを片手に新宿から夜行バスで出発した。


還御祭の一日

 ホーランエンヤは5月の松江で三回にわたって開催される。一つが今年は5月18日に開催された渡御祭、二つ目が22日に開催された中日祭、そして今回オカダが見に行った26日の還御祭だ。

 何が違うのか、それはそもそもこの祭りが何なのかを説明しなければならない。

 松江のホーランエンヤは正式には松江城山稲荷神社式年神幸祭といい、江戸時代初期に始まった祭りだ。慶安元年(1648年)、藩の領地で大規模な凶作となったときに、松江藩主の松平直政が松江城内にある城山稲荷神社の御神体を船に載せて中海のほとりの阿太加夜神社まで運び、五穀豊穣を祈ったのがはじまりとされる。

 そして船で御神体を運ぶのが現在の渡御祭、阿太加夜神社で祈祷を行っている最中に行われるのが中日祭、再び城山稲荷に御神体を戻すのが還御祭というわけだ。ちなみに櫂伝馬船と呼ばれる派手な船は文化5年(1808)、激しい風雨に見舞われた際に、馬潟地区の漁船がそれを助けたことから端を発しているので、その間150年近くは神輿船だけのお祭りだったことになる。

 それらの話については、松江市内にホーランエンヤ伝承館という場所があるので、松江観光の際には是非訪れることをお勧めする。

 還御祭のこの日、伝承館は入館無料となり館内は多くの人でごった返し、祭りの事前学習をしていた。


 なお、「ホーランエンヤ」という言葉は祭りの公式サイトによると、船の上での掛け合いの音頭といわれているそうで、音頭取りの「ホーラ」の掛け声に、櫂かきが「エンヤ」と声を合わせたものが由来であるとの説明だ。恐らくは「えんやこら」に近い言葉であると思われる。

 『「豊来栄弥」「宝来遠弥」とも書かれる』とあるが、むしろ当て字に近いものだろう。


 還御祭のこの日。祭り自体は一日がかりのものだが、御神体が阿太加夜神社を出発して松江に到着するのは昼過ぎ、ということで午前中はもう一か所、城山稲荷神社にも行ってみた。城山稲荷は狐の石像が千体以上もあり、小泉八雲も気に入りよく足を運んだといわれている。

 この稲荷神社の境内は非常に狭く、とても祭りが行える場所とは思えない。ここで祭りができるのかと神主さんに話を聞くと、「関係者しか入れないようにする」とのことだ。つまり、城山稲荷境内での神事は原則、一般の人は見ることができない。残念だが祭りを追いかけられるのは松江城入り口までなのだ。

 ちなみに、城山稲荷神社の石像の中には一体だけ玉を持った石像がいる。それを見つけた人はいいことがあるとか無いとか言われているので、ぜひ探してみて欲しい。


船団の到着

 11時頃から船団が到着する大橋川の川岸は人で埋まり始め、阿太加夜神社を出発した船団は12時20分頃に松江付近に到着する。松江には大橋川をまたぐ大きな橋が4つあり、橋に挟まれた300~500mの3区間の中をそれぞれ船団が2、3週するので、観客は約1kmにわたって川の両側を埋め尽くすのだ。

 

 さてこの船団だが、御神体を載せた神輿船を先導する「櫂伝馬船」は5艘ある。5艘の櫂伝馬船は大橋川が中海に流入する付近の5つの地区がそれぞれ所有するもので、それぞれが総代船、化粧船、賄船などの小舟を引き連れているので、全部で100の船からなる大船団となるのだ。

 地区名を紹介すると、馬潟地区、矢田地区、大井地区、福富地区、大海崎地区であり、文化5年(1808年)に神輿船を助けた最も古い歴史を持つ一番船の馬潟地区が神輿船に最も近く最後尾、10年ごとの祭りの度に参加地区が増えて最後の嘉永元年(1848年)に加わった大海崎地区は五番船で先頭を行く。

 そして櫂伝馬船の上で行われる櫂伝馬踊りや音頭も、いずれも華やかで豪華絢爛なのだが、各地区ごとに異なりそれが祭りの魅力になっている。

 祭りについてはダイジェスト動画を作ったのでぜひ見てみて欲しい。


この踊りは一体なんなのか

 ホーランエンヤの見どころはやはり櫂伝馬踊りなのだが、オカダはこの踊りについて興味を持った。というのもこの櫂伝馬踊り、そして剣櫂たちの衣装、一体何を表しているのかが良くわからなかったのである。

 公式ホームページにはこうある。

幕末の頃、日本海の漁村加賀村の船頭重蔵が、越後地方で習い覚えたものを、各地区が教えを乞いホーランエンヤに取り入れ、当時大変な人気を博したといわれている。

 ではルーツは越後なのか?と思い調べてみたが、残念ながら新潟県内には櫂伝馬踊りを現在行っているお祭りの情報はオカダが調べる限りでは見つからなかった。

 一方で、瀬戸内海・豊後水道を中心に櫂伝馬踊りを伝承している地区があることが分かった。


広島県大崎上島

 まずは広島県大崎上島のきのえ厳島神社「十七夜祭」。

 大崎上島では木江厳島神社「十七夜祭」、ひがしの住吉祭、沖浦恵比寿神社の祭礼という3つのお祭りで櫂伝馬船が登場し、下の動画はそのうち十七夜祭のもの。このお祭りでは櫂伝馬の競漕が中心となっており、スピードを出している時は踊りはないのだが、御座船出し船渡御という行事(動画の1:32から)の際には女性ものの着物を着た剣櫂の姿が確認できる。

 この中で最も古い歴史を持つのは木江厳島神社だが、櫂伝馬踊りがいつから行われていたのかははっきりとした資料は無いそうだ。

 ただ、大崎上島櫂伝馬公式サイトに、「櫂伝馬」という言葉についてはこういう説明があった。

櫂伝馬(かいでんま)とは、一般的に櫂(かい)で操作する伝馬船のことです。かつては、水軍の襲艇(早船)として使用された船のことを櫂伝馬と呼んでいました。

 瀬戸内の水軍がルーツにあるということが分かる。

愛媛県今治市

 次に、愛媛県今治市大濱八幡神社の櫂伝馬。

 こちらは、海上での様子の動画は見つからなかったのだが、今治の市民祭りで他の郷土祭りとともに陸上で舞っている動画を見つけることができた。祭りや神社についてはオフィシャルサイトは見つからなかったのだが、地元のゲストハウス「シクロ」のブログにはこうある。

大浜の櫂伝馬はボートレースではありません。
櫂伝馬「剣の舞」は、河野氏村上水軍が出陣し
無事帰還した神恩に感謝し神酒を酌み交わし
船尾のこも樽の上で剣櫂を乱舞し、勝どきをあげる華やかな剣の舞を
後世に伝える貴重な文化財です。

 これも村上水軍がルーツらしい。

豊後高田市

 豊後高田市でも「ホーランエンヤ」という祭りが行われている。

 この祭りにおいては船は「櫂伝馬船」ではなく、「宝来船」という他地区よりも大きな船に乗っており、踊りも「櫂伝馬踊り」とは言わないようだが、他地区の采振りに当たる人物が舞っているいる姿が確認できる。

 なお、この祭りでは「ホーランエンヤ」という言葉について、

「宝来栄弥」、「蓬莱へ、蓬莱へ」という掛け声が変化したものだといわれている(大分合同新聞、2009年2月2日)

という説明となっており、当て字ではなくあくまで言葉が先にあった前提の説明になっている。


調べれば調べるほど出てくる

 他にも延岡市には櫂伝馬踊り保存会があったり、和歌山県那智勝浦では厄落としとして櫂伝馬を競争として行ったり、「ホーランエヤ」も「ホーランエ」「ホーライエッチャ」と少し異なる名称のものが島根県、広島県などで行われていることが分かった。

 

 ホーランエンヤ、櫂伝馬とはどうも西日本、特にやはり瀬戸内海を中心に広く分布しているもののようである。

 それぞれの祭りはどのように広がり、各地域の特性はどうして生まれたのだろうか。


【後編につづく】